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『疾走』

Y  presents

 牛になる事はどうしても必要です。

吾々はとかく馬になりたがるが、

牛には中々なりきれないです。

 

(『漱石書簡集』三好行雄・編、岩波文庫)

 

 

 

 

 町中の路面が凍りついていた。雲間から木洩れ出る光が歩行者信号に降り注いでいて、厚着をした人々がそこに身を寄せている。が、まもなくその光も閉ざされようとしていた。

 大学の帰路。僕もそこにいて、長い赤信号が変わるのを待っていた。すると、背後から凍った水溜りを叩き割る足音が近づいてくる。

 

 そいつは、いつも通り赤信号を渡っていった。その後は中央分離帯の花壇を踏みにじり、反対車線のガードレールを乗り越えていく。周りの友人たちはそいつを嘲っていたが、僕はそんな気にはなれなかった。しかし、顔だけはその場に馴染んでいる自分がいて、胸の内に刃物を突き立てられたような悪寒がする。そいつ……幼馴染の馬場 駿が、そんなに足早に帰って何をするつもりなのか知っていたからだ。

 

 

 

 その日の午後、僕はカラオケと居酒屋をはしごし、夜更けに友人の肩を借りてアパートに帰ってきた。友人がチャイムを押すと、今度は部屋から出てきた彼女の肩を借りて、僕はソファーまで運ばれた。

 

「遅すぎでしょ。いつまで待たせんの?」

 

「ごめん」という僕の声は枯れていた。彼女は不平不満を言いつつも、酔い覚ましの水を持ってきてくれる。いい人だと僕は思う。大学に入って二年、人生初の彼女で、当初は周りから、「あいつだけはやめとけ」と言われたが、今のところ何ら問題なく付き合えている。

 

 二十年というまだ短い人生の中で、僕は高校生活最後の部活で負けて泣き、文化祭で笑い、卒業式でまた泣なく。そんな青春を送ってきた。それはそれで楽しかったのだが、ようやく自分に春がきた気がしていた。しかし、自分も含めて周りの同級生らが一斉に花を咲かせる中、あいつだけはこの冬から抜け出せずにいる。そう思うとやりきれない気持ちになる。

 

「スマホ鳴ってない?」

 

 彼女に指摘され、カバンに手を突っ込んだ。LINEを見ると、一通の未読がある。送り主は、「馬場 駿」。見計らったかのような幼馴染からの一報に面食らったのち、胸の内に不安がよぎる。まさか……と思って開いたLINEの文面は以下の通りだった。

 

『投稿用の新作ができた。読んでほしい』

 

 短い文の下には、小説の詰まったPDFが貼り付けてあった。

 

「なんだ……前のは落ちたのか」

 

 僕が火照った顔で笑うと、彼女が興味津々と画面を覗き込んでくる。

 

「あ……この人知ってる。小説とか書いてる人だ」

 

 彼女の言葉には、どことなく批判的なニュアンスが含まれていた。

 

「目の前にもいるじゃん。小説とか書いてる人」

「え〜、でも牛尾くんのは趣味でだし。この人はプロの人なんでしょ?」

 

「うん……プロ目指してる人な」

 

「なんか大学の雑誌に小説載っけてるの見たことある〜」

 

 僕は笑顔のままでいた。

 

「こいつの……馬場の小説読んだことあるの?」

 

 彼女に尋ねると少し困ったように、「なんか友達はすごいねーって褒めてたけど、セリフ少なくて私はちょっと……」と言った。僕は安心して風呂に入った。

 

 パジャマに着替えた僕は、他の友達にLINEの返信を済ませると、敷布団に横たわってようやく馬場の小説に手をつけた。が、他ごとに夢中になってしまい、気づけば翌朝になっていた。

 すでに鳥のさえずりが聞こえなくなった時間で、彼女は一限に間に合わせて出かけていた。午後から講義の僕は今のうちに小説を読破しようと思ったが、さすがに無理があって、正午になっても半分ほどしか読めていなかった。しかし、読破できなかったのは時間のせいだけではない。

 

「くそ……」

 

 僕は机で自分の書いた小説と相対していた。まだ一ページ目で、四行しか進んでいない。

 馬場の小説は上手かった。半分読んだだけでもそれがわかって、自分もジッとしてはいられなくなった。身近な人の作品にはそういう魔力があるものだ。

 とにもかくにも時間がきたので、書き出した原稿を引き出しに入れる。引き出しには無数の原稿用紙があって、僕はそれが見たくなくてすぐに引き出しを閉じた。それらの原稿にはすべて違うタイトルが書かれていて、共通点といえば紙の右端に、「1」のノンブルが振られていることだった。

 

 

 

 放課後。黄昏の空き教室では馬場が待っていた。つんと張り詰めた空気の中、スマホも触らずに静座している。馬場はいつもこんな風だった。

 

「どうだった?」

 

 単刀直入に訊いてくる馬場の前に僕は座った。

 

「上手かった! ……けど」

 

 馬場の鋭い眼光が僕を捉えた。手元のノートを開き、素早くメモを取っている。

 馬場の小説は上手い。が、毎度のこと重要な何かに欠けていた。文章は誤字脱字なく整っているし、人物造形の仕方もわかっている。つまり技術はあるのだが、それだけなのだ。本来作品にあるべき温かみのようなものが欠けていて、それは、馬場本人の血の冷たさからきているのだろうと薄々感づいていたが、僕にはそれを言う勇気が欠けていた。

 

「大学を出るまでに結果を残したい。できれば今作で。だから遺憾のない感想をくれ」

 

 まくしたてる馬場に、僕は少し考えて答えた。

 

「なんというか……足りない気がする」

 

 シャーペンが滑るようにノートを走る。

 

「馬場自身の経験不足が、作品に表れてるんじゃないかって……。ちょっとデリケートな話してもいい?」

 

「あぁ」

 

「普通、大学生ってさ、サークルで男友達と馬鹿やったりとか、飲み会で女の子と仲良くなったりとか、それでなんやかんや就職してさ……そんなもんじゃん? 馬場ってそういうのがないっていうかさ……」

 

 馬場は特に傷ついた様子もなく、ありがたそうにメモを取る。

 

「つまり人生経験の不足が共感性を損ねてるってことか?」

 

「まぁ、そんなとこ。急ぎすぎなんだよ馬場は。ちょっとくらい遊んでみるのもいいんじゃない?」

 

 馬鹿なことをと言わんばかりの馬場。すると、教室の戸が開いた。菓子を片手にした女子たちの黄色い声が入ってくる。

 

「あっ……」

 

 先頭の女子がハッとして後続がクスクス笑いだす。

 

「ごめんね? 失礼しましたァ」

 

 女子たちがそそくさと退散していくと、僕は馬場が固まっていることに気がついた。先ほどまで鼻息荒くメモを取っていた男が、冷や水を浴びせられたように黙々と手だけを動かしている。若干話しかけづらい。

 

「まぁ、まずは女慣れした方がいいね。それ就職したら差し支えると思う」

 

「就職する気はない」

 

 言うと思ったが、僕はふと待てよとも思った。

 

「小説家になるんなら、なおのこと克服したほうがいいんじゃない? 共感性を上げるために」

 

 馬場の手がぴたりと止まった。

 

「まぁそれは一理あるな」

 

「僕が協力してやるから、とりあえず一旦手ぇ止めてさ、遊んでみたら?」

 

 

 

 というわけで、僕はアパートに帰るなり彼女に頭を下げた。

 

「馬場とデートしてやってください」

 

 その願いは当然ながら断られたが、こんなこと他の女子には頼めないので、僕にしては珍しく引き下がらなかった。彼女はひとまず事情を聞いてくれたが、やはり馬場のことをよく思っていないらしく不乗りだった。

 

「協力するのはいいんだけど……やっぱり……なんか怖いし」

 

「頼む! デートとまでは言わずとも喋るだけでいいから、お前からぐいぐいいってやってくれない? 馬場も俺の彼女と知ってれば何もしてこないからさ」

 

 喋れば面白いやつなんだよ。そう付け加えると、彼女は渋々と了承してくれた。

 

 

 一仕事終えて、僕は湯船で休んでいた。

 初めはLINEから、というわけで僕が馬場のアカウントを彼女に教え、連絡させてみたらしどろもどろしていて面白かったらしく、彼女は居間でキャッキャとしている。

 僕が馬場に協力したのは、当然ながら善意からではない。馬場が遊んでくれればそれだけ手が止まり、その隙に少しでも自分の作品を進められると思ったからだ。

 

 馬場は今日、「お前の作品はどうなんだ?」とは訊いてくれなかった。昔はよく小説の進捗を訊かれたのだが今ではそれもなくなっていた。僕は何度となく引き出しに溜まった原稿の束を広げ、何か書けそうなものはないかと探ってきたのだが、すでに冷めた鉄をどれだけ叩いても剣は鍛えられなかった。

 

「なんで馬場は書き続けられるんだ……」

 

 僕は水面下でひとりごちた。ずっと疑問だった。そんなに一人で書いてばかりいて寂しくないのかと。飽きやしないのかと。長時間机に向かっているよりも誰かの横にいたほうが楽しいだろうというのが僕にとっての普通で、こんなこと本人には言えないが正気とは思えなかった。

 

 

 馬場はあるとき突然、小説を書くようになった。小学生の頃に両親が別居し、それ以降、筆を執り続けているのだ。馬場があんまり夢中になっているので僕もつられて小説を書くようになったが、正直ゲームをしている方が楽しかった。それでも、常に走り続けている馬場にあてられて、僕も書き続けた。

 

 

 外ではとうとう雪が降りはじめていた。

 正直、馬場が新作を仕上げて賞に送るたびに怯えるのはもう御免だった。来年こそは僕も新作を。そう硬く決め、長い冬が始まった。

 

 

 

***

 

 

 

 年を越して一月になった。まだ春は来ない。それどころか一層寒さを増したように感じる。彼女に急な用事が入って、一緒に初詣に行けなかったことが悔やまれる。

 

 二月。路面の氷が溶け始めた。馬場は少しずつ周りと交流するようになっていた。最近、彼女との折り合いが悪く、アパートに来てくれない。

 

 三月。彼女にLINEを送っても既読無視されるようになる。それと、馬場が春休み中に僕の友人たちと仲良くなっていて、旅行の計画を立てているらしいことを知った。僕も誘われたがどうも体調がすぐれない。気温は上がっているのに、体温はどんどん下がっている。病院に行ったが特に異常はなかった。

 

 そして四月。桜が咲いた。

 新学期が始まってからというもの、僕はどの講義も聞き耳半分で、放心状態で机に伏していた。するとそこへ、しばらくぶりの男友達がやってきた。何やら興奮気味に、一冊の本を僕に押しつけてくる。

 

「なぁ、凄くね? 馬場の小説が載ったらしいぞ」

 

 僕は目をひん剥き、男友達から本をひったくると光の速さでページをめくった。それは市販されている文芸誌で、表紙には「大型新人登場」の見出しがある。

 

 馬場のデビュー作は短かったので、僕は友達にその本を借りて次の講義中ずっと読んでいた。ページをめくる手が震えていたのは、それが馬場の最高傑作だったからだと思いたい。ストーリーは、主人公が友達の彼女を寝取るちょっと背伸びして書いたような不倫ものだったが、そこには以前、僕が感じていた冷血さはなく、血色の良さがあった。

 

 僕は昼休みになるなり、なんとなく行きづらくなっていた友人たちとの溜まり場に行った。広い教室で、窓から差し込む春光の中で男女七人が談笑していて、その中心に馬場はいた。僕は友達に本を返すと馬場にすり寄った。

 

「馬場……見たぞこれ! とうとうやったな! なんで言ってくれなかった?」

 

 馬場の隣にいた彼女はばつが悪そうに教室を出ていった。

 

「次回作はちゃんと僕に……」

 

「次はないよ」

 

 馬場は即答した。

 

「俺はもう書かない。というより、書けなくなった」

 

 僕は面食らった。

 

「は……なんで? 作家になるんじゃ? プロプロってあれほど……」

 

「そう思ってたんだが、なぜか書けなくなった。なんというか、他にも楽しいことがあるんだなって、最近思えるようになった」

 

 その言葉に僕はめまいがした。周りの友人たちは、「なにそれ?」とか、「くっさー」とか言って馬場を小突いていた。

 

「なんだ……そりゃ……え? その程度……」

 

 僕はなんとか顔だけは取り繕おうとしたが、腹の内から出てくる般若をどこまで押さえ込めていたかわからない。周りの反応を見るに、多分隠せていなかったのだろう。まぁそれでもいいかなと思えた。

 

 

 

 僕は走った。いつもの帰り道を無心になって。やがてあの歩行者信号に着いた。すでに雪解け水もなくなっていて、街路樹の桜が咲き乱れていた。

 僕の頭にあるものは机上の鉛筆とまっさらな原稿用紙だけだった。なぜだかはわからない。が、腹の内から湧き上がる何かが、僕を突き動かしていた。僕は赤信号を無視して駆け出した。このままいつまででも、走り続けられる気がした。

 

 

〜終〜

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